品陀和気命(応神天皇)
帯中津彦命(仲哀天皇)
息長帯姫命(神功皇后)
当社は平安期の初期(今より凡そ1,000年程前)安房国の総社として、国府の地(現在の南房総市府中)に創建されました。現在、南房総市府中に元八幡神社(南房総市指定史跡)と称する神社がありますが、ここが当社発祥の地と云われております。
当社の祭式中に六所祭という祭式がありますが、これは当時、総社を六所明神とも称したことから起こったもので、これによっても、当社が昔の総社の後身であることがうかがえます。
源頼朝公が鎌倉に幕府を開き(1185年)、諸国に守護地頭を置くに及んで、国司の権勢が、次第に衰え、総社の崇敬も衰微するようになりました。一方、源氏は八幡大神を氏神として崇敬しましたので、祭神の中の八幡大神が特に崇敬されるようになり、遂には総社が改変されて八幡宮となり、鎮座地も現在の処に移されたと伝えられています。
移された時代については、明確な記録はありませんが、凡そは鎌倉時代の頃と推察されています。いい伝えによれば、源頼朝公は安房国より再起する折り、当社に詣で武運長久を祈念したと言われています。又神社の旧記に建保年間(1213年)、鎌倉将軍源実朝公が社殿を造営奉納したことが記されています。
その後里見氏の時代に至り、鎌倉菅領古河公方及び里見氏累代の厚い崇敬をうけ、里見氏より171石5斗の社領が寄進されました。又永正5年(1509年)に里見家第3代領主義通公が社殿を再建したのを初め、義豊、義尭、義弘、義頼、義康公等が代々社殿を修理奉納しています。徳川幕府も里見氏のあとをうけ、同じく171石5斗の社領を寄進しました。明治6年に郷社に列れられましたが、大正12年(1923年)の震災で本殿は倒壊しませんでしたが、拝殿・幣殿は倒潰し、昭和7年以前と同じ規模で復元され、昭和15年には県社に列せられ、昭和51年9月、創立壱千年式年大祭の記念事業として、本殿を改修、名称も鶴谷八幡宮と改め今日に至っています。
館山湾の夕日を望む
龍の彫刻(館山市文化財)
御神木
二の鳥居